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大阪関帝廟由緒
関帝聖君
中国の関帝廟
台湾の関帝廟
関帝廟と中国人

境内施設
参拝方法

「摂津名所図会大成」

大阪関帝廟由緒

 

「三国志」の英雄関羽を祀る大阪関帝廟は、正式には黄檗宗白駒山清寿院といい、中国との縁が深いため南京寺と通称されています。江戸時代初期の明和元年(1764)12月、浄土宗住職宗円より黄檗僧大肩和尚が譲り受け、中国僧大成和尚を中興開山となし、本堂を再建して黄檗宗の末寺となりました。

 

清寿院は、大坂の文化人木村 蒹葭堂との交流は盛んで、蒹葭堂日記には開山禅師をはじめとした交流が綴られています。また、お寺には江田世恭(国学者)桂宗信(画家)金子雪操(画家)五竹庵木僊(俳人)春名柳窓(蘭学者)八日庵万和(俳人)鷲尾八橋(歌人)の墓所があります。この事からも文化サロンの役割を果たしたと思います。鎖国による文化が入って来るのが少なかったので、中国からの文化を新鮮に取り入れていたのでしょう。

江戸末期の安政2年(1855)暁鐘成薯「浪華の賑ひ」に、「四天王寺東門の東にあり、黄檗派の禅刹として堂舎唐山の風を模せり、蜀関羽の像を祀る、應験いちじるし」と記され、当時からその霊験が喧伝されていました。また「摂津名所図会大成」にも、「清寿院関帝堂 例年5月13日、関帝祭事ありて、大般若修行伶倫音楽奉納もっとも殊勝なり、且詣人に普茶を出して供養す」とあり、藁葺きの表門や一対の摩伽羅(想像上の大魚)を載せた入母屋の本堂などをうかがうことができます。

明治18年(1885)になると、長崎から来阪した広東華商の利興成・同孚泰の両貿易商が発起人となり、日本人取引業者を含めた篤志家とともに本堂・拝所・表門等を中国風に改築します。祭神は本堂祭壇中央に関聖帝君、祭壇左側に天上(后)聖母、右側に財神爺(金儲けの神)が安置されています。何れも改築に際して華商が寄進した仏像で、当院大成和尚が中国より将来したという関帝像は、本堂の内殿に鎮座しています。

改築の翌明治19年、大阪府知事からの要請を受けて、当時流行していたコレラに対処するべく、境内に大阪清国病院衛済堂が設立されました。建設費は、三江・広東・福建幇から各千二百円を拠出して賄いました。大正13年には、大阪・神戸の福建華僑が連合して長崎と同様「普度勝会」(先祖祭祀と施餓鬼法要)を大阪関帝廟でおこないました。ただしこの伝統行事は、昭和16年に戦時下という理由で廃止となり、今日に至っています。

 

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